相対論的量子力学
量子力学の公理に,「系の状態$| \psi, t \rangle$の時間発展はSchrödinger方程式に従う」というものがある: $$ i\hbar \frac{\partial}{\partial t} |\psi(t)\rangle = H |\psi(t)\rangle $$ ここで $H$ はHamiltonian演算子であり,系の全エネルギーを表す.
非常に単純な系,すなわちスピンを持たない非相対論的粒子で,外力が全く働いていない場合を考える.このとき,Hamiltonianは $$ H = \frac{p^2}{2m} $$ となる.ここで $m$ は粒子の質量,$p$ は運動量演算子である.
これを相対論的運動へと一般化したい.
素朴で自然な方法は,相対論的なエネルギー・運動量関係式を用いることである: $$ H = \sqrt{p^2 c^2 + m^2 c^4} $$ とすることである.
Hamiltonianがこのように与えられるとき,Schrödinger方程式は(位置表示で)次のようになる: $$ i\hbar \frac{\partial}{\partial t} \psi(\bm{x}, t) = \sqrt{-\hbar^2c^2\nabla^2+m^2c^4} \psi(\bm{x}, t) $$ この方程式はいくつかの問題を抱えている.ひとつは,空間と時間を異なる扱いにしているように見える点である.時間微分は左辺の平方根の外に現れ,空間微分は右辺の平方根の中にのみ現れる.この空間と時間の非対称性は,相対論的理論に期待されるものではない.さらに,平方根を$\nabla^2$のべき級数で展開すると,$\psi(\bm{x}, t)$に作用する空間微分が無限個現れる.これは,方程式が空間的に局所的でないことを意味する;例えば関数のある点の周りでのTaylor展開を思い浮かべると,高次の項の補正は遠方の点の情報を持っていることがわかる.
これらの問題を同時に回避する方法として,両辺に現れる微分演算子をそれぞれ二乗してから波動関数に作用させることが考えられる: $$ -\hbar^2\frac{\partial^2}{\partial t^2} \psi(\bm{x}, t) = \left(-\hbar^2 c^2 \nabla^2 + m^2 c^4 \right) \psi(\bm{x}, t) $$ という式が得られる.これをKlein-Gordon方程式と呼ぶ.
共変性が明示的に現れるように書き直せば, $$ \left(-\partial^2 + m^2 c^2/\hbar^2\right) \psi(x) = 0 $$ となる.なお,計量符号は$(-+++)$を採用する.
Schrödinger方程式は,時間微分について1次であるが,Klein-Gordon方程式は2次である.これは重大な結果をもたらす:全確率 $$ \langle \psi ,t | \psi ,t \rangle = \int|\psi(\bm{x}, t)|^2\, d^3x $$ が一般に時間に依存する.すなわち確率が保存されない.
Diracは(スピン1/2粒子の場合の)この問題を解決するために,波動関数にスピンを表すための離散的な添え字を導入した:$\psi_a(x),\ a=1,2$.そして次の形のSchrödinger方程式を仮定した: $$ i\hbar \frac{\partial}{\partial t} \psi_a(x) = \left( -i\hbar c\, (\alpha^j)_{ab} \partial_j + m c^2 (\beta)_{ab} \right) \psi_b(x) $$ ここで,繰り返された添え字については総和をとり,$\alpha^j$と$\beta$はスピン空間上の行列でDirac行列と呼ぶ.この方程式をDirac方程式と呼ぶ.
抽象的には状態$|\psi, a, t\rangle$はスピン添え字$a$を持ち,Schrödinger方程式は $$ i\hbar \frac{\partial}{\partial t} |\psi, a, t\rangle = H_{ab} |\psi, b, t\rangle $$ である.Hamiltonianは $$ H_{ab} = -i\hbar c\, (\alpha^j)_{ab} P_j + m c^2 (\beta)_{ab} $$ となる.ここで$P_j$は運動量演算子の成分である.
次に,もし行列が $$ \{\alpha^j,\alpha^k\}_{ab}= 2\delta^{jk} \delta_{ab},\quad \{\alpha^j,\beta\}_{ab}=0,\quad (\beta^2)_{ab}=\delta_{ab} $$ を満たすように選べば, $$ (H^2)_{ab} = (\bm{p}^2 c^2 + m^2 c^4) \delta_{ab} $$ となる.したがって,$H^2$の固有状態は運動量固有状態であり,$H^2$の固有値は相対論的にエネルギー・運動量関係式$p^2c^2 + m^2c^4$である.
共変性が明示的に現れるように書き直すと,Dirac方程式は $$ (i\gamma^\mu \partial_\mu - mc/\hbar) \psi(x) = 0 $$ となる.ここで$\gamma^\mu$はDiracガンマ行列と呼ばれ,以下の反交換関係(Clifford代数という)を満たす: $$ \{\gamma^\mu, \gamma^\nu\} = 2g^{\mu\nu} $$ Dirac行列との関係は$\gamma^0 = \beta$,$\gamma^j = \beta\alpha^j$である.
Dirac方程式は,Lorentz変換に対する共変性を持ち,かつ時間微分について1次であるため,確率保存則も成り立つ.
しかし,未だ問題がある.電子のスピン自由度を区別するためにラベルを導入し,Dirac行列は$2\times 2$である.しかし,実際にはもっと大きくなければならない.
$2\times 2$のPauli行列は$\{\sigma^i, \sigma^j\} = 2\delta^{ij}$を満たす.これらはDiracの$\alpha^i$行列の候補となる.しかし,これら3つの行列と反交換する第4の行列は存在しない.一般にDirac行列の満たす反交換関係を満たす$2\times 2$行列は存在しない.
また,Dirac行列は偶数次元でなければならない.したがって,最小の行列サイズは$4\times 4$であり,2つの余分な「スピン」状態を解釈することが課題として残る.
これらの余分な状態は深刻な問題を引き起こす.運動量固有状態に作用すると,$H$は行列$c\bm{\alpha}\cdot\bm{p} + mc^2\beta$となる.この行列のトレースはゼロである.したがって,4つの固有値は$+E(p)$, $+E(p)$, $-E(p)$, $-E(p)$でなければならない.ここで$E(p) = (p^2c^2 + m^2c^4)^{1/2}$である.
この負の固有値が問題となる:これらは基底状態が存在しないことを示している.光子との相互作用を含む理論では,あるエネルギーを持つ電子が光子を放出して負エネルギー状態に落ちることを妨げる理由はない.このような遷移が起こると,電子は無限にエネルギーを放出し続けることになってしまう.
Diracはこの問題を解決するために,独創的な試みを行った.すべての負のエネルギー固有状態が既に占有されていた場合,正のエネルギー固有値を持つ電子はPauliの排他律により,これらの状態のいずれにも落ちることができない.この負のエネルギー状態はDiracの海と呼ばれる.
もしDiracの海の電子の1つが(例えば,十分に高エネルギーな光子によって)正のエネルギー固有状態に励起されれば,海に空孔を残すことになる.この空孔は正の電荷と正のエネルギーを持つ「粒子」とみなせる.これが,Diracによる陽電子の予言であった.これは電子と同じ質量を持つが,反対の電荷を持つような粒子であり,5年後に実験的に発見された.
仮にこれを受け入れたとしても,光子や$\pi$中間子,$\alpha$粒子のようなPauliの排他律に従わない種類の粒子をどのように記述するかという問題は依然として解決されない.
結局,量子論と特殊相対論は両立しないのだろうか?
実は,そうではないことが判明している.しかし,「根本的に」空間と時間を同等の立場に置かなければならない.これを行う方法は2つある.ひとつは位置を演算子としての地位から降格させ,時間のような追加のラベルとして扱うことである.もうひとつは時間を演算子に昇格させることである.
第2の選択肢は,弦理論へと発展する方法である.しかし,このアプローチは非常に複雑であり,ここでは扱わない.
2つの異なるアプローチは原理的には異なる結果をもたらす可能性がある.しかし,実際にはそうではない:一方の形式は,他方でも扱うことができることが知られている.どちらを用いるかは便利さと好みの問題である.
位置と時間の両方を演算子のラベルとして扱う選択は,ほとんどの問題に対してはるかに便利である.これが場の量子論である.