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長岡京市は,古代日本の政治と文化の発展に深く関わった地域である.平安時代初期,794年に平安京(現在の京都市)が成立する前,長岡京は一時的な首都として設計され,政治・文化の中心地として重要な役割を果たした.この時期,都は高度な都市計画と伝統文化を反映し,貴族や学者が集い,政治的・文化的な革新が進められた.
中世以降,地域は戦国時代の動乱や権力の移り変わりを経ながらも,古代から受け継がれた歴史的な遺産を大切に保存してきた.寺院や神社,伝統行事などは,長岡京市が過去に示した栄光と地域住民の絆を今に伝えている.現代では,こうした歴史的背景が観光資源となり,訪れる人々に日本古来の文化と風情を感じさせる魅力的なスポットとなっている.
長岡京市は地理的に特徴的な位置にあり,京都盆地の端に位置している.周辺は豊かな自然環境に恵まれ,緩やかな丘陵と山々が調和する風景が広がっている.
長岡天満宮は京都府長岡京市に鎮座する天満宮であり,学問の神・菅原道真を祀る神社である.その創建は正式には不詳であるが,史料的には応仁の乱で社殿を焼失し,明応7年(1498年)に再建されたとの記録があり,少なくとも500年以上の歴史がある.地名としては旧開田村に「開田天満宮」と称されていたが,やがて長岡京の名称に因んで「長岡天満宮」と呼ばれるようになった.
社伝によれば,菅原道真は昌泰4年(901年)の太宰府左遷の折に当地に立ち寄り,「我が魂長くここにとどまるべし」と名残を惜しんだと伝わる.それを聞いた従者・中小路宗則が道真の自作木像を持ち帰って祀ったのが当社の起源とされ,以後「見返り天神」の異名でも親しまれてきた.
江戸時代には皇室や貴族の崇敬を受け,特に寛永15年(1638年)には八条宮智忠親王により灌漑用の八条ヶ池が建立され,池を挟む中堤にキリシマツツジを多数植栽した.これが境内景観の象徴となり,現在では春の真紅の回廊として全国的に知られている.キリシマツツジは樹齢170年以上の古株を含め,多数が天然記念物に指定されている.
社殿は昭和16年(1941年),桓武天皇ゆかりの地である縁から平安神宮の旧本殿・祝詞舎・透塀が移築され,東大名誉教授・伊藤忠太の設計による三間社流造の本殿として蘇った.これら建築物は京都府・長岡京市の有形文化財に指定されている.
境内は約2万坪に及び,東には八条ヶ池が広がる.池には中国・浙江省・寧波市との友好を象徴する水上橋が架かり,春は桜,初夏はスイレン・アヤメ,秋は紅葉庭園「錦景苑」の彩りに包まれ,四季折々の景観が参拝者の目を楽しませている.
逸話としては,天神の象徴である道真を祀る神社として,学問成就の祈願所となっている.さらに元禄15年(1702)の道真800年遠忌を機に始まった50年ごとの万灯会や,現在も春のツツジ祭・梅花祭・秋の紅葉ライトアップなど季節行事が営まれており,地域と信仰の文化が今なお息づいている.
西山浄土宗の総本山である長岡京市の光明寺(粟生光明寺)は,法然上人が「南無阿弥陀仏」の念仏を最初に説いたとされる「浄土門根元地」であり,歴史と信仰の重みを感じさせる場所である.鎌倉時代には熊谷直実(蓮生法師)が開いた念仏修行の場として知られ,彼は平敦盛を討った後,光明寺にて罪を悔い念仏を広めたと伝わる逸話がある.
総門は1845年築の高麗門様式で,格式を示す「定規筋」五本が白筋として走り,参道を進むと「女人坂」や「もみじ参道」の茶色や紅色の絨毯が広がる.その風景はJR東海の「そうだ京都,行こう.」キャンペーンで取り上げられ,一躍全国的な紅葉名所となった.
「浄土門根元地」と記された石碑は総門近くにあり,ここで法然上人の念仏が始まったという信念を伝える象徴でもある.境内には御影堂があり,そこには法然上人の張子の木像(御影)が祀られている.これは天皇から賜った念仏を説く上で重んじられてきた信仰の中心である.
新緑の季節には青もみじに包まれる参道が清新な雰囲気を醸し,秋には茶や赤に染まる色とりどりの風景が,一面を覆う紅葉になる.光明寺は四季折々の自然美と信仰が融合する場所であり,訪れる者に静かな祈りと浄土の世界を感じさせる.
恵解山古墳は,京都府長岡京市勝竜寺・久貝に位置する,古墳時代中期(5世紀前半)に築かれた巨大な前方後円墳である.全長およそ128メートル,後円部の直径約78.6メートル・高さ10.4メートル,前方部幅約78.6メートルで,周囲には幅30メートルに及ぶ周濠が巡り,全長180メートルほどにも達する壮観な構造を誇る.
墳丘は三段築成で,斜面には砂岩やチャートを用いた葺石が敷かれ,円筒・朝顔・蓋形など多彩な埴輪が整然と配置されていた.その数は650〜700本以上と推定され,古代の王墓を鮮やかに再現するものとなっている.
1980年(昭和55年)の発掘調査では,直刀や槍,鏃など鉄製武器が約700点も埋納されていることが明らかとなった.全国的にも極めて珍しい出土例で,この大量の武器が,5世紀前半に桂川以西の乙訓全域を掌握していた豪族の墓であることを雄弁に物語っている.
また,戦国時代には山崎の合戦(天王山の戦い)において,明智光秀が本陣を置いたと伝えられている.銃弾や土器が出土したり,墳丘には当時の陣構築を思わせる掘込み構造が認められるなど,後世に再利用された歴史が重なるロマンを現代にも伝えている.
墳丘は発掘研究と保存の上で整備され,公園として一般に開放されている.平成15〜25年に復元整備が行われ,平成26年には「恵解山古墳公園」としてオープンした.復元模型や地形模型,出土品の写真展示があり,当時の姿が想像しやすくなっている.
乙訓寺(おとくにでら)は京都府長岡京市今里に位置し,「牡丹寺」としても知られる真言宗豊山派の古刹である.創建は定かでないが,伝承によれば推古天皇の勅願により聖徳太子が建立し,奈良・広隆寺とほぼ同時期に創建されたとされる.
平安時代初頭,長岡京遷都に伴い桓武天皇が都の鎮護寺として大々的に増築し,京内七大寺の一つに数えられた.延暦4年(785年)には藤原種継暗殺事件の嫌疑がかかる早良親王が幽閉され,この寺が怨霊伝説とともに語られるようになった.その後,怨霊の祟りと恐れられたため,わずか10年後に平安京への再遷都が行われたとの逸話もある.
弘仁2年(811年),空海(弘法大師)が嵯峨天皇の命により別当を務めた際,最澄も来訪し,ここで二大宗祖による密教法論が行われたと記録に残る.空海はこの地でみかんを詠んだ詩を嵯峨天皇へ献上し,その木の子孫が今も寺内に残る.
中世以降は栄枯盛衰を経験し,室町期には禅宗寺院として改宗されるも荒廃.織田信長の兵火に遭った後,江戸時代元禄期には徳川綱吉・桂昌院の寄進を得て真言宗に復帰,本堂などが再建された.
境内は約2,000株・30品種の牡丹が植えられ,毎年4月下旬~5月上旬には壮麗な花景が広がる.「牡丹寺」として多くの人々を魅了し,牡丹祭や健脚祈願(わらじ掛け)などの伝統も残る.
また,本尊は空海自作と伝わる「合体大師像」であり,平安時代後期作の毘沙門天立像(国指定文化財)や十一面観音像など貴重な仏像を蔵する.また,境内には樹齢400~500年のモチノキ(天然記念物)や,空海が献上したと伝わるみかんの木も現存する.
参道脇には早良親王供養塔や十三重石塔,日限地蔵などが点在し,歴史の重みを感じさせる.紅葉や彼岸花,ユキヤナギも美しく,四季折々の風情が楽しめる.
勝竜寺城(しょうりゅうじじょう)は,京都府長岡京市勝竜寺に位置する南北朝時代から江戸時代初期にかけての城跡であり,現在は勝竜寺城公園として整備されている.築城は1339年,北朝を支持した細川頼春によるとされるが,古文書には1457年の記録もあり,守護の郡代役所から発展した城郭と考えられている.
立地は京都盆地の西南端で,小畑川と犬川が合流する地にあり,西国街道と久我畷とが交差する交通の要所であった.そのため山崎城に次ぐ防衛拠点として位置づけられていた.
城は応仁の乱を含む戦乱の時代に軍事施設として使用され,1566年には三好三人衆の拠点となった.信長の入京を機に落城した後,1571年に織田信長の命を受けた細川藤孝が,瓦・石垣・天守風の御主(天主)を備える先鋭的な近世城郭へと改修した.特に北東の虎口・土塁・空堀には「横矢掛かり」など最新の防御技術が導入されており,現在も遺構が実見できる状態で保存されている.
歴史上の逸話としては,天正6年(1578年),細川藤孝の長男・忠興と明智光秀の三女・玉(ガラシャ)がこの城で結婚式を挙げ,新婚生活を始めた場所として知られる.さらに1582年の山崎の戦いでは,明智光秀がここを本陣として配下を整え,敗戦後に北門から脱出したと伝えられている.
廃城は1633年(寛永10年)と伝わるが,その後1992年(平成4年)に歴史公園として整備され,模擬櫓や資料展示館(管理棟)が設置された.2019年には管理棟がリニューアルされ,出土瓦・陶磁器・資料が展示されているほか,本丸跡に「ガラシャおもかげの水」と呼ばれる井戸がある.