向日市

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概要

京都府向日市は,古代から続く歴史と文化が息づく町である.古墳時代の遺跡や中世の史跡が点在し,歴史的背景が町の風情を醸し出している.また,戦国時代から江戸時代にかけて交通の要衝として発展し,その影響は現代の伝統行事や祭りにも見ることができる.近年は,自然環境と歴史資産を活かした観光振興が進められ,地域の住民と訪問者双方にとって魅力的な文化交流の場となっている.

市内は緩やかな丘陵地帯と広大な平野が広がり,大小さまざまな川や清流が流れることで,地域全体に潤いをもたらしている.四季折々の自然の移ろいが感じられ,春には花々が咲き誇り,秋には紅葉が美しく彩る.

地質学的には,かつての火山活動の影響や堆積作用によって形成された地層が見られ,地下水の恵みを背景に農業も盛んに行われている.また,自然環境が都市の発展と共存しているため,伝統的な風景と現代的な利便性が融合した独特の景観が魅力となっている.


目次


寺戸大塚古墳

寺戸大塚古墳は,京都府向日市と京都市西京区の境にまたがる,古墳時代前期(4世紀前半~後期)に築かれた全長約98メートルの前方後円墳である.乙訓丘陵上に位置し,後円部は直径約54~57メートル・高さ約10メートルの三段築成,前方部は幅約45メートルの二段築成で,墳丘斜面には葺石が施され,墳頂や平坦面には円筒埴輪や朝顔形埴輪が大量に立てられていた点が注目されている.

後円部・前方部の双方に竪穴式石室が設けられており,後円部の石室は西山産の板石を用いた全長約6.45メートル・幅約0.85メートル,高さ約1.6メートルの規模を誇る.前方部にも長さ約5.3メートル・幅約0.9メートル・高さ約1メートルの石室があり,両部ともに鏡や武具,工具,装身具など豊富な副葬品が納められていた.

出土した鏡の中には,木津川市の椿井大塚山古墳と同じ鋳型で作られた三角縁神獣鏡があり,地域首長たちの連携や政権構造の一端を示唆している.さらに鉄剣や鉄斧,鎌や刀子といった武具・農工具類,勾玉・管玉などの装身具も出土し,前期古墳時代における地方豪族の勢力と生活をうかがわせる貴重な証拠となっている.

墳丘構造に関しては,近年の調査で前方部の西辺が外側に開く形状であることが判明し,以前考えられていた「柄鏡形」とは異なる墳形であることが裏付けられた.

現在,墳丘の後円部は雑木林,前方部は竹林に覆われ,遊歩道「竹の径」沿いに囲い越しで観察できる状態にある.発掘調査は1923年から断続的に行われ,最新の調査は2000年代~2012年まで続いた.

寺戸大塚古墳
寺戸大塚古墳 後円部(Photo by Saigen Jiro. CC0. ref.Wikipedia

長岡京

長岡京(ながおかきょう)は,京都盆地の南西端に位置し,かつて日本の都であった跡地である.784年,桓武天皇は平城京の地理的・仏教勢力的な弱点を克服するため,「水陸交通に便利」で渡来系氏族とのゆかりがある乙訓(現在の向日市・長岡京市・大山崎町・京都市西京区)へ遷都を決断した.都城の造営は延暦3年(784)6月に始まり,翌年には大極殿や内裏が完成し,新都としての体裁を整えた.都域は東西約4.3km,南北約5.3kmと大規模で,条坊制・排水設備・宅地井戸・牛車掘跡など高度な都市機能を備えており,発掘調査により「幻の都」ではなく実在した都市であったことが証明されている.

だが新都は短命であった.延暦7年に藤原種継が暗殺され,長岡京には疫病・天変・皇族の死といった不吉な出来事が相次ぎ,怨霊・災厄の極まる都として評判を呼んだ.そのため延暦13年(794),桓武天皇は都を平安京へ再遷都し,長岡京はわずか10年間のみ都として存続した.遷都後は京域は民地へと戻り,平安京成立後も遺構は長い間失われていた.

その後,1954年に向日市内などで初めて条坊や宮殿跡などが出土し,その後の調査は2,500回以上にも及ぶ大スケールの発掘事業となった.調査は朝堂院跡,大極殿跡,内裏跡など主要遺構を次々と確認し,国の史跡に指定されて現在も広く保存されている.

地理的には丘陵と河川が織りなす地形で,桂川・宇治川・木津川(淀川)が流れる要衝にあり,都の南には港(山崎津)や物流の拠点である溝渠・牛車道跡,北西には自然湧水を活かした排水機構を備える清潔な街づくりが行われていた.こうした都市設計は,後の平安京の造営に大きな影響を与えた.

逸話としては,藤原種継暗殺事件や疫病流行に続いて皇后・皇太子らが相次いで死亡.陰陽師による占いで「怨霊が原因」とされたことで怨霊信仰が高まり,怨霊鎮めのため平安遷都への動機となったとの説もある.また藤原種継は地元所縁者でもあり,都造営に大きな影響を及ぼしたが,その暗殺が都の短命を象徴する事件として語り継がれる.

現代の長岡京は歴史を活かした文化都市となっており,地元では毎年11月に「ガラシャ祭」が開催されている.これは近隣の勝龍寺城にゆかりのある細川ガラシャにちなんだ祭で,城下町としての歴史的連続性を伝える都市文化として親しまれている.

長岡京
長岡京跡碑(Photo by Saigen Jiro. CC0. ref.Wikipedia

向日神社

向日神社(むこうじんじゃ)は,京都府向日市北山に鎮座する古社である.創建は養老2年(718年)と伝わり,延喜式神名帳にも「向神社」「火雷神社」として記されるほど由緒が深い式内社である.もともと標高約60mの向日丘陵に上ノ社(向神社,五穀豊穣を司る)と下ノ社(火雷神社,祈雨・鎮火の神)として分祀されていたが,中世初期に下ノ社が荒廃し,1275年に両社が合祀されて現在の姿となった.

ご祭神は御歳神(向日神/五穀豊穣を司る),火雷大神(祈雨・鎮火の神),玉依姫命,さらに神武天皇も祀られている.神紋は葵紋(当初は二葉葵)が用いられ,徳川家ゆかりとも伝わる.

本殿は室町時代・応永29年(1422年)建立の三間社流造で,平成に国の重要文化財に指定された.その優美な流れ造りの屋根は,明治神宮本殿の原型になったとも言われ,社殿建築として高く評価されている .参道は石畳に桜と楓がトンネル状に覆い,春の花祭りや秋の紅葉の時期には幻想的な光景が広がる .

氏子地域に深く根ざす神社であり,毎年4月には桜祭り,5月第2日曜に神幸祭・還幸祭,7月末の夏越の祓,10月には御火焚き祭といった神事や季節行事が行われ,市民に親しまれている.

地理的には,向日丘陵の南端にあり,桂川・宇治川・木津川の三川合流地帯を見渡せる高台に位置する.そのためこの地が地名の由来ともなり,室町期以降,都から西国への交通の要となった古街道・西国街道沿いに町場が形成された.

また,社地の南側には元稲荷古墳をはじめ古墳群も点在し,地勢的にも古代から信仰と武の歴史が重なってきた地である.古墳群は社名とともに「向日」の地名のルーツとも関連づけられてきた.

向日神社
向日神社 社殿(Photo by Saigen Jiro. CC0. ref.Wikipedia