更新日:
宮津市は,古代から交通と交易の要衝として栄えた歴史ある都市である.古代には,瀬戸内海を通じた交易路の中継地として発展し,多くの文化や宗教が交わる場所となった.
江戸時代には,毛利氏の影響を受けながら農業や海運が盛んになり,伝統工芸や地域祭りなどの文化も育まれた.伝統と風土が調和し,住民の生活に深く根付いた文化が息づいている.
近代に入ると,産業の発展や都市計画が進み,歴史的建造物と新しい文化が共存する姿勢を保ち続けた.現代では,過去の栄光を伝える遺跡や祭りが保全され,観光資源として国内外から訪れる人々に宮津市の歴史と魅力を伝えている.
宮津市は,京都府北部に位置し,瀬戸内海に面した温暖な気候と豊かな自然環境が特徴である.市内は,海岸線の美しさと山々の景観が調和し,歴史的な寺院や地域に根付く文化が訪れる人々に独特の魅力を提供している.
天橋立は京都府北部・宮津市に位置し,日本海に面した宮津湾と内海の阿蘇海を隔てる全長約3.6km,幅およそ20~170mの砂州である.白砂と約8,000本に及ぶ松林が織りなす景観は「白砂青松」と呼ばれ,日本三景(松島・宮島・天橋立)のひとつとして古くから景勝地に数えられてきた.
地形の成因は約6,000~4,000年前に丹後半島東岸から流出した砂礫が沿岸流により堆積してできた砂嘴であり,『丹後風土記』ではイザナギノミコトがイザナミノミコトに会うため架けた梯子が倒れてできたという伝説が記されている.
文化・歴史的には,奈良時代にはすでに『丹後国風土記』に登場し、室町時代の雪舟作『天橋立図』が国宝に指定されるなど多くの文人墨客に愛されてきた.また江戸時代には林鵞峰や貝原益軒により日本三景の一つとされ,百人一首に小式部内侍の「まだふみもみず天の橋立」歌が詠まれている.
観光名所としては,南岸の天橋立ビューランドと北岸の傘松公園が代表的な展望所であり,腰を折って股の間から眺める「股のぞき」をすると,砂州が天に昇る龍のように見え,それぞれ「飛龍観」「昇龍観」と呼ばれている.さらに「一字観」「雪舟観」と合わせ,天橋立には四大観と呼ばれる眺望ポイントが存在する.
周辺には智恩寺や元伊勢籠神社といった社寺,名水「磯清水」(環境庁の名水百選)などの見どころも点在し,海の幸グルメ(丹後ぐじ・丹後牛),クラフト体験などとも合わせ,自然・信仰・食文化が一体となった観光地として知られている.
金引(かなびき)の滝は,京都府宮津市滝馬(たきば)に位置する,落差約40 メートル・幅約20 メートルの雄大な分岐瀑である.左右に分かれる流れは右を男滝,左を女滝と呼び,滝本体に続いて臥龍(がりゅう)の滝,白龍(はくりゅう)の滝といった小ぶりな滝が並ぶ様子も含め,総称して「金引の滝」と称されている.
地質的には宮津花崗岩(黒雲母花崗岩)や花崗閃緑岩の岩肌に沿って形成された滝で,幅広く滑らかに水が落ちる様は「日本の滝百選」に唯一選ばれるほどの美しさで,市街地からほど近いにもかかわらず,水量は豊富で四季を問わず安定している.
歴史面では,山名である金引山は別名題目山とも呼ばれ,平安時代から詩題に用いられたり,真言密教の霊域として如願寺や威性院の塔頭が滝近くにあったと伝わっている.1049年には皇慶上人による開基が想定されており,江戸期には宮津藩主本庄松平家が家臣の精神鍛錬の場とした記録が残る.その際にそばを打たせて提供された「滝そば」が始まりという逸話も存在する.
また,地元には「火祭り」の伝承があり,江戸後期の宮津藩の悪政に苦しんだ民が金引不動尊に祈願し,悪鬼(赤鬼)を神火の矢で討ち,滝が火となったという伝説が起源とされ,現在も7月最終日曜に「金引の滝火祭り」が火の弓矢や巫女舞,太鼓演奏を伴って行われる.
地理的には標高265 メートルの金引山東麓にある滝馬川上流部に位置し,滝壺が浅く砂地となっているため,水しぶきや水遊びを間近に楽しめる.滝が東向きのため午前中には虹がかかることもあり,北向き地蔵尊や不動尊堂といった信仰の痕跡や,苔むす岩と深緑が織り成す静謐な雰囲気も魅力である.
世屋(せや)地区は京都府北端,丹後半島中央部に位置する人里離れた山村で,現在は宮津市の一部となっている.もともとは江戸時代に「上世屋村」「下世屋村」を含む世屋村の領域で,山に囲まれた緩やかな斜面は,頁岩を中心とした地質により安定して農地として活用できる土地だった.近世から明治にかけ,薪や炭の生産を軸とし保存性の高い農産物を出荷し,また藤織りや和紙漉きといった手工芸も営まれ,農閑期の貴重な収入源となっていた.
集落は「にほんの里100選」や「日本の里地里山30」に選ばれるなど,原風景としての里山景観が高く評価されている.山間に広がる棚田と笹葺きあるいはトタンぶきの伝統家屋が波打つように連なり,その背後にはブナやミズナラの二次林が控え,自然と人が調和した生活が今なお息づいている.
手仕事の文化は現在も息づき,藤織りは京都府の無形民俗文化財に指定され,和紙漉きも伝承者と市の連携により体験の形で継承され続けている.2010年代以降は若い移住者やクリエイターも集落に加わり,和紙工房,クラフトビール製造,ジビエ猟など多様なライフスタイルが混ざり合いながら,世屋の伝統と自然を未来につなげようとする営みが進んでいる.
宿泊施設も整備され,体験型の棚田農業や古道散策など観光振興も図られており,里山と共生する暮らしを求める人々にとって「小さく生きる」場として魅力的な地域となっている.
由良神社は京都府宮津市由良宮本に鎮座する古社で,旧府社に列せられた格式高い神社である.創建年代は不詳だが,かつては霊峰・由良ヶ岳の麓に祀られていたと伝わり,出雲国八束郡・八雲村の熊野大社から素戔嗚尊の分霊を勧請したことに始まる.
祭神は伊弉諾命,櫛御気命,誉田別命.江戸時代には丹後田辺藩主から崇敬され,近世の由良港の隆盛とも相まって「由良湊千軒長者」といわれた賑わいがあった.もともと上宮・中宮・下宮の三社に分祀されていたが,1711年(正徳元)に造営されて一社に統合され,熊野三所権現とも称された.
現在は宮津市街地の和貴宮神社の禰宜が兼務している無住社となっており,境内一帯は広く清浄な空気に満たされている .また,由良地区の氏神として,宮本・浜野路・港の三地区の住民に親しまれており,例祭は10月第2日曜に由良祭として開催される.
地理的には由良川河口の西岸,由良駅から徒歩圏内に位置し,参道を抜けると由良ヶ岳を背後に望む景観が開ける.海と山,川を結ぶ由良の風土と深く結びついた神社である.
境内には洋学者・蘭方医の新宮涼庭や,軍艦「由良」にちなむ献木碑,艦これファンに知られる「艦隊これくしょん」の聖地としての石碑もあり,歴史・文化・現代の信仰が交差する独特の空気を漂わせる.
例祭のほか,2月には丹後地方最古ともいわれる厄除けの茅の輪くぐり行事が,10月例祭では神楽や氏子の連携による祭典が行われる.
丹後国分寺跡は,奈良時代(741年),聖武天皇による国家鎮護の一環として建立された「国分寺」のひとつで,正式名は「金光明四天王護国之寺」.宮津市国分の台地上に位置し,眼下に阿蘇海と天橋立を望む絶好の地に造られた,いわば当時の「国の華」である.
創建当初は七重塔を備え大伽藍を誇ったとされるが,律令国家の衰退に伴い荒廃.平安末期から鎌倉時代にかけて再興され,当時の遺構は瓦や陶磁器などの出土により栄華の痕跡が明らかにされている.しかし鎌倉末期から幾度かの火災に見舞われた後,大和西大寺の僧・宣基が中興.中世以降も維持され,戦国期に再び焼失したものの,江戸時代には背後の高台へ移転し,法灯が守られてきた歴史を持つ.
現在の史跡には鎌倉〜南北朝時代に再建された金堂・塔・中門の礎石群が残り,塔跡では17〜16個,金堂跡では34基以上が露出し,法起寺式の寺院配置が確認されている.奈良時代創建当初の礎石も混在し,創建から中世までの息づかいが感じられる遺構群である.
この場所は「天平観」と呼ばれ,台地から望む天橋立の眺望はかつて僧侶たちも称賛したもの.同様に雪舟の名作『天橋立図』にも寺院とその五重塔が描かれ,その配置は現在の礎石とほぼ一致している.
伝承によれば,国分寺跡にはかつて鬼伝説も伝えられている.鎌倉時代,宣基上人が復興を助けた善良な鬼の男女が,人々に化けて寺の再建を手伝ったのち,お面を置いて去ったという話が『続日本紀』の記録にも残る.そのお面や「鬼石」は郷土資料館に現存しており,節分には鬼供養の護摩が行われるなど,信仰として今も生きている.
地理的には,宮津市国分793番地に位置し,史跡エリアは南北243×東西248メートルと広大.史跡は国の史跡に指定されており,隣接する京都府立丹後郷土資料館には国分寺出土品や資料が展示されている.